堀出神社発祥の地金津保は古く鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」に記載されていることにより広く世間に知られています。承久3年(1221年)5月承久の乱が勃発すると、越後の国でも、後鳥羽院の主導する王朝勢力と、鎌倉幕府執権北条義時方の勢力が、この国の支配権をめぐって激突しました。執権北条義時は、東国武士団に対して参戦を促すとともに。東海、東山、北陸の三道に分けて上洛軍を編成しました。その中に越後の武士金津蔵人資義がいたことを記す「吾妻鏡」の記述があります。これが金津姓の武士の初見です。
新津市の先祖を遡ると源義家の弟源頼光(新羅三郎)の子平賀盛義が信濃国より越後に入り蒲原郡の平賀城(護摩堂山城)を築城して平賀氏と称しました。その孫が金津蔵人資義であり最初に金津城を築城し、また中世の武士は住む地名を姓にしました。「社伝では金津城築城の時、地中から男女神像を得て城中に伊邪那岐、伊邪那美尊とお祀りし、堀出大神と奉称したといわれています。これが堀出神社の創紀となります。」金津蔵人資義には3人の子供があり、長男の死亡で次男木津左衛門尉資直が分家したが金津城の後を継ぎ、金津蔵人左衛門尉資直と称し金津保の地頭職となった。三男信資が天福元年頃(1233年)、山谷、俗に楯の腰という処に分家して新津市の初代となり、新津越前守三郎信資と称しました。両家親しく交わってきたが、本家の金津氏が何かの都合で金津を去るとき、その所領と堀出神社の御神体を新津氏が受継ぎ新津城内に守護神として祀られてきました。